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2021

亡き父のために|野村佳太(4年)


亡き父のために



平成30年 10月 22日。父がこの世を去りました。


朝は、いつも通り元気にしていましたが、急にこの世を去りました。

私は、学校の1限があり朝早くに家を出たので、家族はまだ寝ており、10月22日、父と会話はしていません。

最後に話したのは、昨日、「けーた。iPhoneの低電力モードってなんだ?」という会話が最後でした。その日は、ちょうどオフだったので、授業が終わった後、大学の友人と焼肉を食べに行く予定でした。

多摩センター駅をぶらぶらと歩いていた時に、突然母親からの電話がありました。電話に出ると、母は、泣きながら「お父さんが死んでしまった」と言いました。私は、頭の整理がつかず、嘘を言ってるんだろう。そう思いながら、電車に乗り、一息ついた時、これまで過ごした父との思い出が頭の中に浮かび、電車の中で我慢していた涙が溢れるように出ました。


一つ謝りたいことがあります。
その時、一緒に電車に乗っていた友人は、このブログを見てないと思いますが、あの時急に泣き出し、すみませんでした。


冗談は置いといて。
私が家に着いた時、もう外まで泣き声が聞こえていました。家に帰ると、父が倒れていて、息をしていませんでした。
私はそこから1週間ほど、サッカーの練習にも行かず、父の事を思い出しては泣き、ぼーっとして、また泣くの繰り返しでした
ただ、私の妹は、3日ほど経った時、「父のためにサッカーをする」と言い、練習に向かいました。僕は、メンタルが弱いので、サッカーをやる気力なんてありませんでした。


そこでふと考えました。


「父のために自分が出来ることは何か」


考えた結果、やはり、サッカーしかありませんでした。



サッカーとの出会い


私は、小学校1年生の時、サッカーと出会いました。

正直、私の両親は、野球とソフトボールの経験者であったため、自分もそっちの道に行くのかと思っていました。
ですが、練習を見に行った時、みんな坊主であり、私は、ほんとに坊主が嫌で嫌であったため、サッカーを選びました。


私の両親は、運動神経がとても良かったので、私も運動神経が良くてサッカーがとても楽しく、毎日小学校に行き、ボールを蹴っていました。小学校では、市の選抜などにも選ばれ、順風満帆に送り、ある大会で活躍し、その時見にきていたクラブチームのコーチの目に留まり、内定を貰いました。もう、これはプロに絶対行けると自分に過信していました。

ですが、それは違いました。中学、高校と全くうまくいかず地獄の始まりでした。


中学時代、所属していたクラブチームはとにかく走るサッカーであり、練習では、馬鹿みたいに走りがありましたが、私は、走ることに自信があったため、うまくサボりながら乗り越えていました。
ですが、1番地獄だったのは、合宿でのご飯でした。茶碗満杯のご飯を3杯食べないといけない。私は、ほんとに食べることが苦手で、毎回嘔吐して泣きながら食べていました。
もうほんとに嫌で嫌で、馬鹿みたいに食べれる人の隣に行って、助けてもらったり、自分でもある技を覚えました。それは靴下の中に、食べ物を隠すという技です。それほど嫌でした。中学の思い出は、それくらいです。



高校サッカーでの挫折と栄光


そして、高校は、サッカー推薦で神奈川の高校に進学しました。
そこで待ち構えていたのは、最初のカテゴリー分けで1番下のCチームからのスタートということです。なんで下手くそな奴がBチームにいて、自分はCチームなのか。そこで、スイッチが切れ、サッカーが嫌いになりました。
ですが、その時心の支えとなったのが、その時出会った仲間でした。本当に仲間には感謝しています。

私はもう一度、心を改め、逆にCチームにしたコーチ、監督を見返してやろうという気持ちが強くなり、練習では、最後まで残り、努力を決して怠らずに行いました。その行動もあって、少しずつ試合で結果を出せるようになりました。

そして転機が訪れました。

ある遠征で、静岡の強豪校とやる機会があり、そこでスタメンで使って頂き、ある程度活躍し、Aチームに昇格しました。そこから高校2年生の時、全国高校サッカー選手権大会神奈川予選では、ピッチに立ち、決勝まで行き、テレビにも出ました。試合には惜しくも敗れましたが、私のサッカー人生を大いに変えてくれた出来事でした。



自分たちの代では、絶対決勝まで行って、全国に行く。


みんなでその目標に向かい、また歩み出しました。ですが、高校3年の夏くらいに、私は、両方の股関節の疲労骨折をしてしまい、そこから怪我人生活の始まりでした。そして、選手権の日が近づくにつれ、少しずつ股関節の調子が良くなりました。医者にも、「試合に出れそうだね」と言われ、本当に諦めないでやって良かったと思いました。毎日、治療・リハビリを行って良かったなと。

予定では、2回戦、3回戦くらいから出場する予定だと監督に言われていました。ほんとに、ぶっ壊れても良いと、毎日痛みに耐えながら、練習をしてきました。

ですが、急に監督に呼び出され、そこで言われたことは、「仲間を信じろ!その次の試合でいくぞ!」でした。次の相手には、勝てる自信が監督にはあったんだろう。まぁ、自分も勝てると思っていました。

ですが、そう簡単には、いきませんでした。試合の展開的に嫌な流れがありました。攻めても攻めても点が入らない。そして、後半に失点をしました。その時、我慢の限界がきて、監督に、「試合に出してください」と自ら申し出ました。

ですが、「まだ良い。」と言われました。その時、ほんとにこいつ何考えてるんだよと思いました。ほんとにぶん殴ってやろうかと思いました。監督、すみません(笑)ロスタイムが表示され、私は残り3分の時に、出場しました。案の定、何も出来ず、私の高校サッカーに幕を閉じました。



家に帰り、また泣いては、ぼーっとして、また泣くの繰り返しでした。
ですが、その時父は、よく頑張ったと一言だけ言ってくれました。
ちょっと、こんなに文字と見つめ合うのも、目が悪くなる危険性があり、良くないので少しまとめます。


伝えたいこと


私が伝えたいことは。

「当たり前の生活が毎日来るとは限らない」ということ。

私は、感謝の気持ちをもう少し言葉に出して、表現する必要があったと後悔しています。

皆さんには、私のように後悔して欲しくない。

だから、自分の周りにいる人、家族、大切な人に感謝を伝えてほしい。

私は、野村佳太として、この世に生まれてきて、本当に良かったと。

野村家の一員として、生まれてきて良かったと心から思っています。

そして、これからは、少しでも恩返しが出来るよう、頑張って生きていきたいと思っています。

だから、皆さんも、1日1を日大切に生きてほしいです。


私は、大学を卒業し社会人になっても、またどこかしらでサッカーを続けるつもりです。

私を見かけたら、声をかけてください。

私は大体の人に、怖いと言われますが、ほんとは、良い奴だと自分ではそう思っています。


私は、サッカー人生でこれと言った目標を達成したことがありません。

だから、学生生活最後のシーズン。

必ず、『関東昇格』という目標を達成してみせます。

色んな人の思いを背負って、全力で戦います。

今の帝京大学体育局サッカー部なら、成し遂げることが出来ると思います。



無観客試合が続いて、試合を観に来れない日々が続いていますが、これからも応援のほど宜しくお願いします。


最後に、

父のお葬式には、たくさんの方が来てくださり誠にありがとうございました。

父も喜んでいたと思います。ほんとにありがとうございました。


そして、

新型コロナウイルスの影響を受けてるのにも関わらず、サッカーが出来ること、そして出来る環境を作り出してくれた方々、大学の関係者、医療従事者の皆様、心より感謝申し上げます。

そういった方々の為にも、自分の行動を改めて見直し、コロナウイルスに負けないように、前を向いて歩んでいきましょう。


私のつまらない長話を最後まで読んでくださりありがとうございます。


次回は、アホみたいに足が長くて、アホみたいにイケメンなのに、性格にクセがある、小泉幸太君です。



野村佳太|KEITA NOMURA

学年:4年

学部:医療技術学部

前所属チーム:相洋高校

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